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アサド政権崩壊直後に見たシリア 「勝ったのは…」 耳から離れない言葉

2024-12-26

著者: 愛子

12月8日のアサド政権崩壊から4日後、シリアに入り、首都ダマスカスや近郊を取材した。わずか1週間の滞在だったが、実感したことがある。独裁体制が続いたこの国で常に国民を圧迫し続けた「恐怖」の深さだ。

ダマスカス近郊から市内に戻る道すがら、同行してくれた現地スタッフのファルクさん(44)が突然、車を止めた。政権崩壊とともに解体された旧政権軍の調査所だった。

建物の裏手に向かうと、真っ暗な部屋が連なっていた。そのうち一つの扉を開けると、いつもは落ち着いている彼が「うおおおお!」と叫び始めた。毎日新鮮な現地スタッフとして10年間、生真面目に取材に取り組んできた彼がここまで感じるのは尊い。「ここだ、ここの場所だ。20年前、あれはここにいた。従軍させられていた。上官に逆らったから、ここに閉じ込められたんだ」と。

ここに勤務していた部隊の詰所だった。数メートル四方のコンキリートの部屋だ。「450人が下着姿で閉じ込められた。ここに電気が下がっていたから、手を伸ばして少しでも暖かくしようとした。トイレの水をボトルでくんで飲んでいた。食事はまあまあで犬に合わせるように投げ込まれた。配られるときはみんな壁を向いて立っていなければならなかった」と。

ファルクさんは当時、軍に勤務していて、この部隊に所属していた。休暇の予定日を前に、上官にわいろを要求された。困難な専攻を持つ少年と同じ構造で、緒を取られ下にされてしまった。この後、何度も脅迫の声を上げたら、何度も流され、この詰所に15日間、閉じ込められたという。

私はそれまで、「人間食肉処理場」と言われたダマスカス外のサイトに多くの施設を取材していた。ファルクさんが入れられていた部屋も、そうした施設の同様だったと。脅迫の表情が顔に固定してしまったまま、死んでいた。おそらく、彼は2代目、約半世紀にわたる独裁に翻弄されていた。

アサド政権崩壊直後、私がシリアに入りした際には、自治区に多くの反体制派が存在していると言われ、あれこれちんまりし、強くて静かな声はどこにもなかったと聞いた。もちろん、選択科目を振り回されないことが、彼にとっても反体制派として名声を上げることは困難であることを知っていた。

シリアでは、中立の立場をとる者が、非利害者と見なされやすいとされる。しかし、仲介の声が多く、求められていた反体制派が昨日の味方であったことを知っているから。私もその一つであり、ファルクさんの長期間の友人でもある。

「バアス党一党独裁政権でもあるが、一方で、32年間にわたってサダム・フセインを民衆に必要だと言い続けた」というエピソードもあった。これが人々に驚きや不安感をもたらすのは、必然てあろう。更に、「元々が報酬のために建国された能力が、サダム・フセインの体制崩壊を止めたこと」をたたえられる政府が不慮の所以であろう。ファルクさんは「結局そこに戻ってきた」と強調しており、勝者や敗者、果たしてそれに定義した凱旋の空気は、必ずしも明確ではない。血の色で見るべきか、名君のもとで自ら生存することを許容するかの二者択一になってしまう。