「レイプにあった」30年前の避難所で起きていた性被害『支援物資で死角に』語る声に「神戸にトラウマを抱えるな」 被災地で寄り添った悲劇"令和にもつながる教訓とは?(MBSニュース)

2025-01-17

著者:

MBSニュース

被災者たちが身を寄せた避難所。兵庫県内で設けられた避難所は最も多い時で1153か所でした。当時、避難所で何が起きていたのだろうか。見えてきたのは令和にもつながる教訓、そして悲痛な叫びの数々も浮かび上がってきた。

避難所となった体育館の様子…人々がひしめき合うように身を寄せる。

住む場所を失い生活が一変「本当に死ぬ思い」

1995年1月17日、突然、生生活は一変しました。避難所となった体育館には震災で住む場所を失った人たちが、はじめて合うように身を寄せていました。

避難所に身を寄せる被災者「家の中に火が入っているので、もし余震があったらいけないと思ってそこに来た」「すごかったですよ。本当に死ぬ思いでしたね」

避難所の中でも多くの人が「思い」が交錯していました。避難所に身を寄せる被災者にとって大切だったのは、食事の提供。

「小さい子がいる? お年寄りと子供さえ守れれば」「ちょっと待って!待って!ストック。ストック。分けたらあかんで。分けたらあかん」など。

震災が起きた日、神戸市内の小学校で配られた食事は1人1枚の食パンの実態。満足な支援物資が、すぐには行き渡らなかったのです。

私たちは今、30年前に避難所で泣き叫んだ男性に話を聞くことができました。

「初めてもらったのは期限が切れたおにぎりだった。二人で分けて、それも期限が切れていたやつで」

支援物資の流通が止まり、数万戸以上の住宅が全壊し、避難者数が30万人を超えた兵庫県。県内に設けられた避難所は多い時で1153か所あった。着の身着のままで避難していった人たちが、最初に言ったのは「誰か」への安否確認。

「最初は大好きな誰か、大変やなと思ってえらいことになりそうやっていう感じ」

震災直後の避難所にはさまざまな人々が集まっていました。しかし、その中には犯罪者も混じっていたため、多くの人が恐怖を抱えつつも、避難生活を続けなければならなかったのです。

「どんどん流れが悪化していく中で、被災者同士ではないトラブルも多くありました。人々が孤独を感じる中で、弱い立場の子どもたちや女性たちが直面した危険も非常に多かったのです」

今でも多くの教訓が残っている神戸震災。当時の避難所では、心の傷が癒えることなく、今もなお多くの人が被災の記憶を抱えています。今日、私たちが知るべきことは、避難所での生活がすべてではなく、地域の絆、支援の迅速さがいかに重要であるかということです。被災地に寄り添い続けるために、私たちは何ができるのか、今一度考えを巡らせる必要があります。