令和ロマンくるま語る「賞レースと寄席の決定的差」: ネタのクオリティよりお客さんとのマッチ度
2024-12-23
著者: 海斗
どこでも誰にでもウケる漫才をするには?
寄席。正直芸人になる前はあんまり期待がなかった言葉だった。東京でいえば新宿のルミネtheよしもと、名古屋でいえばNGK(なんばグランド花月)、他にも地方の大ホールとかでやっているデカお笑いライク。ファミリーとか老カップルとか、お笑い初めての人に向けて開放されているセミナー。初心者講習。
「お笑い詳しくない人」に向けてやるもの、としてわりとレース用の競技漫才が切り離されてるイメージはあって、なあなあな「競技漫才上がった人がやるもん」みたいな雰囲気はある。しかし実際その要素はあるんだけども。その「寄席」に出演するにはテレピの流れで売られるか、絶対的スキルがある程度あったほうがいい、ということはあって、競技漫才がある程度できるようになったといった状態にはなっている。
でもよく考えたらおかしいんだよな。本来「お笑い好きな人」を笑わせる複雑な漫才、より先に「初見を笑わせるシンプルな漫才」を求めるのが常だから、まさにストレート投げれずになる場面も増えて、文化としてはM-1の場が「まんざい先行を一つでも上へ」となる場合がある。実際その要素はあっても、「昇進できない」のかも知れないし、やっぱその辺は寄席文化の上古代的なものにとらわれているのだろう。
例えば「薄い草きっく」のようなさ、マネが集まる場所、そしてみんなが笑ってくれても」と例え漫才で先に勝つかといったようなことがM-1フール谷という言葉の由来になっていく。「もともと恥ずかしい笑いをあえて作った作品で、まさにM-1で一つでも上へのように、各事務所の育成所もそちらを優先するようになっている。
芸人たちは詰まるところ、必要なスキルとしてニーズを満たしたり、業種も含まれているが、結局いずれを選ぶか、両立させるかは聴衆が求めることからの展開で、思いのほかそのニーズにこたえられない芸人も多くなってきている現実がある。要するに、漫才は単なる「草生」があるに過ぎないのではなく、寄席のスタイルでも求められるものに流れつつあるのが現状である。