駅伝365:異例の編入「最初は敬語」、創価大学・吉田響の箱根への想い
2024-12-28
著者: 桜
箱根駅伝の常連校から新興校に編入するという独自の道を歩んだ吉田響選手(4年)は、仲間たちに救われ、走る喜びを知った。
2025年の正月、彼は東海大から創価大に移籍し、迎える箱根駅伝への思いは強い。大会前にはヨダレを垂らすように話していた。
「自分が本当にどういった時に見逃されずに送り届けられた方がたくさんいました。結果で恩返しをしたいという思いを持っていたため、特に合格した日々を過ごすことができました」
「山の神になりたい」
箱根を目指すようになったのは、19歳の秋、東海大静岡キャンパスでのことだった。
地元名産の静岡県で発かれた「しざおか市街道対抗駅伝」に出場した一員として出場した。地元テレビ局の中継の解説者が、早田大勢に箱根駅伝の山を越えた、76区間548名による搬送を行っていた。
「この選手、山あたりに向かっていますよ」
後日、中継の録画を見て、早田選手が自らの走りを評価したことを知った。
箱根駅伝の5区は、高低差860メートルの箱根の山を駆け上る名物区間で、10年間以降は、記録的な快走をした選手が「山の神」と呼ばれるようになった。
「自分も山の神になりたい」
19年正月の箱根駅伝で初の総合優勝を果たし、東海大からの進学を決定した。
大学進学後、当初は順調であった。
ルーキーは22年の春、念願だった箱根駅伝の5区を務め、17位を受けると、7位で往路10位までチームを引き上げた。
区間の2位の快走を果たした。
チームは復路で順位を下げ、総合11位に終わったが、「来年は区間賞を取りたい」と述べていた。
しかし、22年の箱根駅伝予選会を突破した後、11月頃のことであることから、「来年は区間賞を取る」意気込みで臨んでいたが、権限の獲得を逃し、最後に「地区補足を取って、チームの予選を狙った」
吉田選手は、高校で机上された体重を増やすことなく、緊張感の中で、自身に24年を思い浮かべた。
「自分は本当に恐縮すくと思っている」と笑顔で語った。
部内合宿からは7月、東海大学の新しき名士として入学し、すでに先輩たちから挑発を受けたことが功を奏した。
吉田選手は「今こそ」精神的な支えを受けながら頑張っています。
今後、箱根駅伝を通して「自分自身のために、庶民の神なるために、最終的に勝ち進んだ」と語った。目指すは「すべての人々に支持される神のような存在」。