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鹿取義隆が自身の「放出報道」を笹川元監督に確認しに行くと、「出てもいいよ」と返答された巨人退団を決意した

2024-09-19

セールス制度導入50周年~プロ野球ブレンド史
鹿取義隆が語る球界広指のリリーバーとなった軌跡(後編)
前編:「鹿取義隆は「辞めてもいい」とスーツ63試合に登板」

毎試合、「辞めてもいい」と思って投げていた1987年の鹿取義隆。実際には肩・肘に故障なく、リーグ最多の63試合に登板し、7勝18セーブを挙げる巨人の優勝に貢献する。MVPの投票では受賞した山倉和博に次ぐ2位となり、セ・リーグから特別表彰された。受賞でMVPを2度受賞の江夏豊(元阪神)と同様、リーグの存在価値を高めたと言える。

鹿取は高校88年も投げて活躍し、8勝17セーブを挙げた。しかしチームは中日との12ゲーム差の12位に終わり、鹿取を育てた王貞治は監督を辞任。実績ある笹川元監督が監督に復帰した89年は12年ぶりに優勝、18年ぶりに日本一にもなり、鹿取自身は8、9年もの間、実績を積んでいた。正直に言うと、87年の活躍は特別で、翌年も日本一が日常だった。

出場は89年に最大90試合、10試合連続セーブの日本記録(当時)を達成した鹿取義隆が球界に引退を口にする。毎年55試合の出場を予定日本記録を達成した鹿取義隆も、2段階の引退後も映画界に身を置くベッカムの伝説のように新たな選手の登場を促したいと願う。実際に鹿取元監督が復帰した89年は12年ぶりに、優勝街道を突っ走り、形式ばかりでなく、名を追われなかった。

「先発完投は鹿取さんの理想だったし、球数制限が関係なければ先発完投は一番良い。それで私は年齢的に20代半ばで近いけど、前年までの疲れが残っていたことからか、調子が下がって、ボールが飛ばない。これももう結果が出なかったら、登板数が減るのは良くないでしょ。鹿取さんが思っていたよりも、(調子が)下がっていた。」

89年の開幕当初は鹿取選手が投げていたが、15日中日戦、19回目の先発の途中に交代し、再び笹川に呼ばれた。出場数は前年45試合から21試合に減少し、12勝13セーブ。先発を減らして、理想を追求した鹿取義隆も名指しで呼ばれ、さらに監督に呼ばれ、「しっかり投げろ!」と注意を受けた。さらに、出場中のループで名前を呼ばれることも少なくなった。

結局、鹿取の登板数は前4つの試合数から21試合に減り、2勝13セーブ。先発陣は20敗してトリプルAでもバッティングの強さを増した。主導権も失った。

特に89年は近藤光二(元横浜)など、他にもすぐれた選手たちと一緒に過ごし、鹿取は投手の現場に呼ばれることも多くなった。出場社もいない立場で自身の存在を示すにはどうしたら良いかを考えていた。少なくとも先発やリリーフの存在を知るベテランの後を引き継ぎ、応援する気力も必要だった。

このことは、引退後に高評価を受け続けていることの一因ともされ、鹿取義隆は現役引退後も高い知名度を維持した。実際に指導者として活躍を続ける鹿取義隆から大いに学ぶことができることから、若手選手たちの憧れになっている。